ジョンレノン

ジョンレノン
ビートルズが解散したのは1970年のことである。日本は大阪万博に沸いていた頃、わたしはまだ9歳のときである。特に科学に興味があったわけではなく、家族で出掛けた万博のアメリカ館に炎天下の中を並んで見た月の石は、どう見ても路傍の石ころに過ぎ


【1970年3月14日】 大阪万博開幕 27万人来場、月の石は4時間待ち

ず、高揚感とはうらはらに拍子抜けしたのを何となく覚えている。ビートルズが活躍していたのはまさに私の少年時代であったので、テレビやラジオではきっと頻繁に流れていたのだろうが、好んで聞くという感じではなかったしファンというわけでもなかった。何となく名前を知っているに過ぎなかった。以降もしばらくの間は子供向け雑誌の


HD アルプスの少女ハイジ OP

付録として入っていたアニメの主題歌のソノシートの曲のほうが自分の好みだったし、心震えた。
中学時代にたまたま入部したのがブラスバンドで、その演奏曲の中にはヘイ・ジュードやオブラディ・オブラダなどもあったが、むしろポール・モーリアやパーシーフェイスの方が気に入っていたし、世は黒人コーラスグループが花盛りでスリーディグリーズやスタイリスティックスが気に入っていた。英語のリスニング力は限りなくゼロに近く、


愛がすべて - スタイリスティックス Can't Give You Anything (But My Love)

それでも無理やりカタカナに書き落とした「うえんうぇーらっしーゆーあーげーん」は今でもよく覚えている。また暮らしていた地域の近くに米軍基地があったので、FEN(地元ではヤンキー放送と言っていた。)も意味も分からずよく聞いていた。
そんな私がビートルズを自分の意志で聞きたいと思うようになったのは、高校生の頃である。当時は深夜のラジオ番組が一世を風靡しており、「オールナイトニッポン」や


あなたのジェットストリーム/城達也

パックインミュージック」、さらに世が更けた頃に「ジェットストリーム」など様々な番組があった。地元の放送局でもやっていたのだが、東京の放送局で聞きたいと思って音の悪さや電波の不安定さも何のその、チューニングを合わせて聞いたものである。その中のどの番組かは忘れたのだが、ビートルズ特集をやっていた。それを聞いたときの感動が忘れられずはまっていった。最初に買ったのは俗に言う赤版青版という選曲集で、活動期間の前半と後半に分けて代表曲を収めたものである。CDなどなかった時代でありカセットテープを買って聞いていた。そのときの印象は何となく聞いたことのある曲が多かったということである。全く意識はしていなかったけれども、テレビやラジオ、街角のアーケードなど至るところで繰り返し繰り返し流れていたんだろうな、だから覚えていたんだな、と思う。ファンとなった頃からは私のファン魂に火をつけたのが、テレビでビートルズの武道館ライブが放映され、今では幻となっている「ライブ アット ハリウッドボウル」というライブ盤が発売された。海賊版や廉価版などでビートルズのライブを聴くことができるが、音質が悪く、何よりあまり演奏や歌も集中して


- Baby's in Black - {ハリウッド・ボウル・ライヴ!} The Beatles

いる感じではないものが多い中、この「ライブ アット ハリウッドボウル」は音質がよく何よりノリノリの四人が生き生きとしている。ファンとなったタイミングもよかったのだろう。
本やレコードのライナーノートなどには、ジョンレノンの子供時代は決して恵まれていなかったこと、オノヨーコとの間に生まれたショーンレノンのためにおよそ五年もの間音楽活動を休止したことなどを知った。そしてお忍びで何度も家族で訪れたのが軽井沢であったことも知ることとなった。ジョンレノンのソロ活動の時期に発表された曲に「ビューティフルボーイ」というのがある。子供に対する慈愛に満ちた丸メガネの奥の眼差しまでが見えるように伝わってくる楽曲である。


Beautiful Boy John Lennon HD

ジョンレノンが軽井沢でよく訪れていたのが万平ホテル、そして喫茶店の離山房である。離山房を訪れたとき、多くの外国人が林の中に入っていくのを見た。オノヨーコやショーンレノンと寛いでいる写真が有名なあずまやがそのままで残されてい、それを見にきていたのである。万平ホテルの展示コーナーには、ジョンレノンも欲しがったというアップライトピアノが鎮座している。
時は長野新幹線開業前のことである。横川~軽井沢間が廃止される少し前、この路線を利用してみた。停車中にこぞって買うことで有名な「峠の釜めし」をもう買うことはできないのかと思っていた。どうなるのだろうと思いながら特急あさま号が横川の駅に着


JR 信越本線碓氷峠 廃止直前 横川駅 釜飯販売他 懐かしの風景、 EF63 横川にて 1997/8/2 DV79

いたと思ったら、案の定たくさんの方が釜飯を求めてホームに飛び出していた。そして列車が横川駅をゆっくりと走り出したとき、釜飯の会社の方が列車に向かってお辞儀をしていた。その光景はひとつの時代の終わりを告げているようだった。ちなみに峠の釜めし軽井沢駅しなの鉄道改札付近で現在も購入することができる。
長野新幹線の開業、そして長野オリンピック開幕に合わせて町並みが急ピッチで変わっていった。高架部分を抑えて景観保護に努めてはいるが、それでもどこか無機質な部分が増えた印象は否めない。